一度だけスキーに行ったことがある。二十歳そこそこの頃、父親と姉との3人で新潟の上越国際スキー場へ行った。母親はスキーなんて行きたくありません、と宣言していた。
若い頃ライセンスを取得したという父親が、俺が教えてやる!って感じで張り切っていた。スキー後の温泉しか興味の無い私はヘラヘラやり過ごした。寒いし、転ぶし、面白くもなかった。もう一度スキーしたいなんて1ミリも思わないまま今日まで生きてきた。
スキーに行かないか、と夫に言われた時も、正直気分は乗らなかった。面倒くさいなという感じ。だからスキーに興味ないと率直に伝えた。伝えたはずなんだけど、最終的に行くことになってしまった。あれ、何でだっけ?ということが人生ではよく起こるよね。
一度だけスキー行ったことがある、と伝えたことがあるから、脈ありと思われたのかもしれない。でも全くいい思い出が無いとも言ったはず。運動神経が良いから、その気になれば大抵のスポーツはできるよ、やらないだけ、と大口を叩いたこともある。でも辛い運動は大嫌いとも言ったはず。
そう、人間とは自分に都合の良いことを都合よく解釈する生き物。
(夫)じゃあホテル取るよ、いいね
(私)え・・・?
(夫)小物も全部レンタルできるから心配ない!
(私)何が・・・?
お母さん、あなたのようにはっきり断れませんでした。
スキー旅行が近づくにつれ、憂鬱になってきた。しかも日本海側は寒波で大雪の予報。
(私)スキー場に行って、スキーしないという道はあるか?
(夫)暇だよ
確かに、雪遊びも大人一人じゃ難易度高すぎる。
(私)チェックイン時間になった瞬間、私だけ先にホテルに行く
(夫)はぁ、どーぞ
(←結局、荷物を部屋単位で預けるなどの運用上の都合により実行できなかった)
決まった以上は仕方ない、と腹を括り始めたころ、希望の光が。実は夫の一番の目的はスキーではなく、新潟県魚沼市にある「鈴木牧之記念館」という事実。え、「あの鈴木牧之」ですか?
1770年に現在の新潟県南魚沼市に生まれた鈴木牧之(ぼくし)は、家業の傍ら、ほとんど知られていなかった雪国の暮しを『北越雪譜』という本にまとめた。都市以外の生活文化を記録・発信することは、民俗学成立以前においては革新的だったそうだ。『北越雪譜』は大ベストセラーとなり、豪雪地帯のリアルを江戸っ子に知らしめた。
もう一つの代表作が『秋山記行』で、この作品の舞台である新潟県と長野県にまたがる地域を旅行したことがある。現在「秋山郷」と呼ばれるこの地域を歩くと、鈴木牧之の名を何度も目にした。江戸時代のローカル偉人の話は大体面白い。だから、記憶に残っていたのだ。
そうなるとちょっと話は変わってくるわけで。スキーは面倒、牧之は好物。
そうこうしているうちに出発当日を迎えた。新幹線でトンネルを超えるとほら雪国。越前山脈のおかげで関東平野は雪から守られていることを実感する瞬間。越後湯沢駅で上越線に乗り換えて塩沢駅から10分ほど歩くと鈴木牧之記念館に到着。消雪パイプのおかげで道路の雪は消えている。
『北越雪譜』は出版に漕ぎ着けるまでがとにかく大変で、30年以上かかっている。出版してくれる版元が見つからない、仲介人が亡くなってしまう、10年以上待ちぼうけを食わされた挙句、原稿を返してもらえない・・・胃がキリキリしてくる。
ちなみに、10年以上待ちぼうけを食わして原稿を返さなかったのは曲亭馬琴だ。山東京伝・京山の親子、十返舎一九などの江戸の文人たちと交わした書簡や短冊なども見逃せない。鈴木牧之はとにかく几帳面な人で、交遊録もキチッと残されている。
『北越雪譜』から影響を受けた中谷宇吉郎、中谷宇吉郎の教え子で雪崩を研究した荘田幹夫のコーナーがあり、さらにユネスコ無形文化遺産に登録されている越後上布についても展示されていた。
貸し切り状態を良いことに、気の済むまでじっくり見て回った。スキー場が閉まる時間までここにいて良いんだが・・・?という気分になったがそうはいかない。越後湯沢駅に戻りお昼を食べ、いよいよスキー場行のバスに乗る。
スキーについては、書きたいことが特に無いので簡単に書く。ゲレンデに出てみて意外だったのは、「ちゃんと立ててる」ことだった。そして、リフトに乗って初心者用コースを滑ってみたら、結構余裕だったのだ。私の運動神経の良さが発揮されてしまったのだろうか、はるか昔のスキー体験を体が覚えていたのだろうか。
そう思ったのも束の間で、初心者コースより一段階難しい初級者コースでは何回も転んだ。登って降りてまた登って、変なスポーツだな!って夫に言ったら、笑顔で面白いでしょ!と言われた。また行こう、なんて言い出しやしないだろうか。ちょっと嫌な予感がしないでもない。

