ポスト印象派と呼ばれる画家と言えば、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌが有名どころ。ただし、前のふたりの人気に比べて、セザンヌはやや劣勢のようです。
悲劇の天才というイメージが強いゴッホと、南の島にフェードアウトしてしまったゴーギャン。ふたりの画風には一目でそれと分かるような、強烈な個性があります。一方のセザンヌは、パリで芽が出ず四十過ぎて故郷に戻り、67歳で亡くなるまでコツコツと絵を描き続ける人生を送りました。絵もふたりと比べると何となく地味…な印象が否めません。
それでもセザンヌが気になるのは、一目で良いと分からない良さがあるような気がしてならないからです(もちろん「一目で良いと分からない」というのは、絵に詳しくない私個人の感じ方です)。きっかけは、サント=ヴィクトワール山を書いた1枚の絵に出会ったこと、そして同じ山を繰り返し描き続けたというエピソードを知ったことでした。
その絵はアーティゾン美術館所蔵の『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』という作品です。どっしりとしてるのに透き通っているような、孤高の山の姿がしばらく心に残っていました。
サント=ヴィクトワール山の絵をまとめて見たいな、と思っていたところ、去年発売されたのが『図説 セザンヌ「サント=ヴィクトワール山」の世界』です。
パリ時代、プロヴァンス時代を通して、サント=ヴィクトワール山を描いた一連の作品を鑑賞することができます。彼の足跡を手掛かりに、「どこで」、「何を」描いたのか、というアプローチがなされており、技法とか分からないんだよな…という素人でも興味深く読むことができました。
セザンヌは絵に物語を持ち込まず、目に見える対象だけを描いた、と別のところで読んだことがあります。時代の潮流から離れ、何年も、何度も、故郷の風景を、彼だけの山を。絵の具の下には、それまでに描かれた多くのサント=ヴィクトワール山が、見えない層として重なっている。そうでなければ、あの形と色彩は生まれなかったと思うのです。
そんな「孤高」な彼の存在は、若い画家たちの憧れとなっていきます。ちっとも地味なんかじゃなかった。