B面のつぶやき

美術館、図書館、喫茶店に出没しがちデイズ

シュルレアリスムと日本|板橋区立美術館

都営三田線の終着駅、そして駅から徒歩15分。ちょっと行きづらいのは分かります。が、もしそれが行かない理由であれば、ちょっと考え直したほうがいいかもよ。

日本でシュルレアリスムがどのように受容され、発展し、戦争を挟んで受け継がれてきたのかがコンパクトにまとめられています。雑誌や日記などの資料も豊富。作品リストでは、宮城、群馬、広島、北九州など、日本全国の(特に公立の)美術館から集められていることが一目瞭然、貴重な機会です。

詩人アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのは1924年。やがて20世紀最大の芸術運動と呼ばれるほどの影響力を持つようになります。そのうねりは1920年代後半の日本にジワジワと波及、1930年代には大阪や名古屋などにも広がり最盛期を迎えます。

若い芸術家たちの新しい表現を生みだそうという熱狂が感じられるようです。前衛指向の若者にとって、シュルレアリスムの出現は目を開かれるような体験だったのかもしれません。

欧州のシュルレアリスムフロイトマルクスの思想を基盤としており、多分に反政権的な側面を持つ運動でした。日本においては政治色は強くなく、そもそも画家自身がシュルレアリストを自認していない場合も多かったようです。それでも戦争の影が濃くなるにつれ、弾圧の対象に。リーダー的な存在だった瀧口修造、福沢一郎などが検挙された日の吉井忠の日記からは、仲間たちの動揺が伝わります。

戦争は多くの画家の命も奪いました。1945年頃に亡くなった人たちの年齢をつい計算してしまいます。ポスター(写真)にも使われている『多感な地上(1939)』を描いた浅原清隆(1915−1945)もそのひとり。一方、生き残った山下菊二(1919‐1986)は、強烈な色彩で、日本の倫理感をあざ笑うような『新ニッポン物語(1954)』を描きました。

まったく異なる印象の両作品ですが、どちらもシュルレアリスムの作品として並べられています。これまであまりスポットが当たらない印象のジャンルでしたが、思った以上に多彩な広がりを感じました。

画家たちそれぞれが自由に発想したイメージと、戦前から戦後にかけての時代背景を重ね合わせ、それほど遠い昔ではない日本の雰囲気を想像する。抽象画よりずっと取っつきやすいし、面白い。

これが一般650円とは、です。「とは」!